昭和47年1月11日 朝の御理解
中村良一
御神訓
一、 心配する心で信心をせよ。
心配する心で信心をせよと。今朝から、御祈念中に、あれは、芭蕉の句だと言われておりますね。「古池やかわず飛び込む水の音」ですかね。「古池やかわず飛び込む水の音」静かなといううよりも静寂なという場を表現したものですよね。静まり返ってる、古池のあるところですから。そこに、かわずが飛び込んで、その清家さを破るようにかわずが飛びこむ。その水の音がする。その水の音が、かえって、静寂を、いよいよ、静寂なものに感じさせるというのでしょうね。そういう、お知らせを頂いて、今日、頂こうとするところが、心配する心で信心をせよと。まぁ、繋がりがない様にありますけれども。私は、今日は、この心配する心で信心をせよという所をね。そこからヒントを得て、聞いて頂きたいと思うんですけれども。心配する心で修行をせよと、ここは、頂かなきゃならない。信心をせよという事ではなく、心配をする心で、信心修行をせよという事である。ただ、信心せよて、それは、いわゆる、より深い、より静かである事をです、かわずの飛び込む水の音で、かえって静寂を感じるようにです。
私共が、常平生、まぁ何でもない時には、信心頂いておるおかげで、まぁおかげでと言ってますよね。まぁ、いかにも、安心が出来ておるように思う。まさかの時には、神様がござるからと。まぁ平生心と言うか、を、持ち続けておる事が出来るのですけれども。こと、そこにです、かわずが飛び込むようになるとね。私は、今日は、かわずと言うことは、私に下さる、まぁ私が、この世の中で、怖いというものはないと思うくらいですけれども。かわずだけが怖いとじゃん。ですから、まぁいうならば、怖い事と言う意味でしょうね。怖い事と言うか、難儀な問題と言うても良いかも知れません。突発的に起きてくる、例えば、難儀な問題。確かに、静かで静かで、自分の心を信心頂いておるおかげで、本当に、平生心を、こうして保つ事が出来ると思うておるのですけれども。こと、何かがあると、顔色が変わる。こと、何かあると、胸がドキドキしてくる。こと、何かがあると、これほど信心するのにと言うような心が起こってくる。信心しよっても、こんな事が起こってくるというような事になるのです。静かであると思っておるところへ、その静かさを破る様にです、かわずが飛び込んだ。怖いものが、そこに、怖いと言うか、不安になるような心配な事が起こったということでしょう。そしたら、今まで静かであったのは、もう静かではなくて、波立って来る。
私は、折角、信心を頂くのでございますから、常平生、何もない時には、いよいよ有難い。けれども、そこに何かが、まぁ難儀な問題なら、難儀な問題が起きた時にです。本当、信心ちゃ有難い事じゃある。こういう問題が起きておるのにもかかわらず、私の心は、いよいよ、有難い、静かな心で居れるということは、まぁ何と有難い事だろうかと思う時、初めて、私は、古池や、かわず飛び込む水の音と言うことが言えるのじゃないかと思うですね。何かがある時には、慌てんですむ。信心する者は、これから先、どの様な事が起こってきても、驚いてはならんぞと教えておられるのだけれども。何かがあると、すぐ顔色が変わる。いよいよ、信心の有難さをです。何かがある都度にです、信心ちゃ有難いもんだなと、まぁ普通で言うなら、難儀なら難儀、問題なら問題がある度にです。信心とは有難いなと、その信心の有難さ、その深さをですね、広さを、身に心に感じれれるほどしの信心。そこでです、私どもは、そこまで、なかなか到達し得ないのです。ほんなら、難儀を持っておるし、その難儀なことは、また不安でもありゃ、心配でもある訳です。心配する心で信心をせよという所を、心配する心で信心修行をせよという。その信心修行をさせて頂いておるうちにです。心配とは反対なですね、安心の心というのが頂けてくる。しかも、どんな場合であっても、安心しておれれるというおかげが頂けてくる。その安心を目指してのおかげでなからなければならない。勿論、安心ということは、お徳を受けなければ、安心ということは言えません。お徳受けずして、安心しておりますというのは、そら、けっして、安心ではない。まぁいうならば、安心感ぐらいなもんである。その証拠には、かわずが飛び込んだら、もうどうしようかと、これほど信心するのにと、顔色が変わるというようなのですから、安心ではない。ですから、心配する心で信心修行をさせて頂く事によってです。段々、心配のない、安心の生活が生まれてくる。その安心の日常生活が出来るということをです、私は、昨日の月次祭の後の御理解に頂きますように。豊かな心の国に居る私は、豊かなものの世界にもいる事になる。
私どもが、あの人は心の大きい人だ、落ち着いた人だとこう言うております。ですから、そういう人達がです。例えば、本当なものかどうかということはね、そういう豊かなものの世界に住まわせて頂けれるほどしのものが、繋がっておらなければね。それは、豊かな心とは言えないです。まぁ、いうならばですね。必要なものが、必要に応じて、頂けておれれるという信心。あの人は、心の大きい人だと。心の豊かな人だと。まぁ気の長か人が居りますよね、中には。その、気の長かつを、あの人は豊かな人と思ったり、自分も豊かな人だと思うたりしておる人がある。そんな事じゃない。それはもう、神経は、針の先で、突いただけでも、びりびりする様な神経を持ちながらです、豊かな人がある。そういう、私は、本当の豊かな心が頂けたら、豊かに全てが恵まれなければならんのです。だから、そういう世界に住みたい。そういう世界にありたい。それが、信心の目指すところ。それを安心という。どのような場合でも安心しておれれる。ただ、そういう、安心の心、豊かな心の上にです。豊かなものに恵まれる世界がある訳です。だから、どうでも、おかげを頂きたいと。豊かなおかげを頂きたいと思うならです。思うほど、私は、心配する心で、信心修行をせよという事になるのです。信心をさせて頂いておりますと、日々、いわゆる、取次を頂いて、お願をさせて頂いておりますと、本当にあの、そこに、神様の働きを実感しなければおられないおかげというものはありますね。それを、例えば、その日暮らしの様な生き方、その日暮らし的なおかげの中に、それを、かえって、はっきりする事が出来ますね。
昨日でした、そこの合楽食堂の中村さんが、正月から、食堂は、やはり、何日間休んでありましたが。正月は、食べ物屋さんは、だいたい暇ですよね。けれども先生、日々、お取次を頂いて、お願をさせて頂いておりますとですたい。不思議に立ち行くという。売り上げが、どんどん良い時にはゆとりがある。明日も売り上げがあるとこう思うとる。明後日も運がるとこう思うとる。ところが、日々、いわば、売り上げが、現在少ないのでございますから。私は、昨日、そんなお取次をさせて貰う時に、こんな御理解を頂いた。中村さん、あなたが修行しておるようにね。合楽食堂という食堂そのものも修行しよるとじゃけん、お礼どもせんならんばいち、私は申しました。家そのものも修行しよると。あなたが一人で修行しよるとじゃない。いわゆる、合楽食堂、そのものが修行しよる時なんだ。だから、窮屈な時には、お店そのものが修行しとると思うて、お礼を申し上げなきゃいけん。その翌日、昨日の話なんです。如何にも、さぁ今日の仕入れにも事欠くごとあるけれどもです。それがもう、日々です、はっきり、それだけは、きちっとおかげを頂けれるとこう言うのである。だからね、もう明日の分まで、明後日の分もまぁだゆとりがるという時には、おかげ頂きよっても、おかげおかげと、まぁおかげ頂きよると言うけれども、その実感が少ないけれどもね。もうその日の、ぎりぎりのおかげを頂いて行くのでございますから。神様の働きというものを思わずにはおられん訳であります。昨日も、そんなお届けをしておられます。というて、ほんなら、そういう事がです、ずーっと続いたんじゃ困りますからね。だから、例えば、銀行なら銀行に、預金なら預金が沢山あってです。いわば、その金の事だけにならば、安心しておれると言うほどしのおかげを頂けるようにならなければならん。だから、そういう時にです。いわば、おかげの実感というものがあらなければ値打ちがない。
例えば、うんと儲け出した。儲け出した時にです。その日暮らしの時に、本当に、間違いのうおかげを下さった、あの実感がです。いわゆる、儲け出した時にも、その実感があらなければ値打ちはないと思う。ゆとりが出来てくる。余裕が出てくると、いわば、要らん事にでも手を出したり、贅沢三昧をしたりして、また、元の黙阿弥に戻らなければならない様な、いうならば、元を作って行く訳であります。だから、栄枯盛衰という訳です。それが、世の習いのようになっとる。けれども、けっして、金光様のご信心は、そうじゃない。日まさり月まさり年まさり、代まさりにおかげは受けていけれると言うのは、お道の信心なんだ。だから、ほんなら、お道の信心しよるけん、どこでもそうかと言うと、今日、私が申しますようなところ。その日暮らしであった時分にです。もうその日その日、必要なものが必要なだけ神様が下さる。おかげ下さるという事実をね、積んだ上に積ませて頂いて、神様のおかげを頂かなければ出来る事ではない事実をね、体験して、積んで行くところにです。どんなにゆとりが出来ましても、神様のおかげでという実感が強いから、いよいよ、言うなら、日まさり月まさりのおかげになって行く訳であります。ですから、どうでも、その根本になる、そこんところを、いわゆる、日々が心配でたまらん、不安でたまらんという時にです。ただ、心配する心で信心せよというのは、もう心配をせんで済むほどしのおかげを頂けておいう事でもあると、今日は頂かせて貰うてです。心配する心で、信心修行をせよという事になる。不思議に、信心修行が出来てくると、いわば、度胸が出来てくる。例えば、怖いなら怖いものの実態というものを、じっと見つめる事が出来る。
私は、一遍、山本の近藤さんというところ、今、おられませんけれども。宅祭りに行った事があった。大きな古い泉水、古池じゃないけれども古い泉水が、水が溜まってない。深い、大きな泉水なんです。真ん中にこう山がある。それがもう、何年も前から住みついておるという、もうそれこそ、一升枡よりもまぁだ大きいくらいでしょうかね、ワクドがあるとです。そこに飼うちゃるとです。もう私は、これを見ると、それこそもう、本当にそりゃもう、身の毛のよだつごと怖いとです。もうこんな、こーまか青びきでん、怖いとですからね、大体。それで、こんな大きなワクドでしょうが。するきん、私には、そげんとを飼うとる訳じゃなかばってん。もう住みついとると言うので、ちょうど縁から、一二間先の方にその、あれが出て、今日は、それを本当に見てみろうと思うてからですね。お縁の、座ってから、こうやって、じーっとそのまま見ると、こう正面に向かってから、座らせて見せて頂いた。ところが、見よら見よるほど、こえらしかですね、ありゃ、本当。あれは、あれの作り物を、庭縁にでも飾るくらいですからね。一つの眼があるです、なかなか。私が見よるから、向こうも、じーっと、こっちを見よるごたる感じなんです。そしてこりゃ、怖いもんじゃないな、こえらしいもんだなぁと思うんです。ただ、突発的に、ぱっと出て来ると、もう、本当にもう、私は、一遍、このくらいばっかりのワクドがですね。かまどの行く時に、お縁に、ちょっと暑い時に、ちょっと出た瞬間、そこに出てきたんです。ほしたらその、悲鳴というものが、もう何とも言えん悲鳴だったらしいですから、みんながびっくりして来たんですけれども。二転三転してますね、転んで。お風呂の方さえ、こう。もうどうしてあげん身軽く飛びなはったじゃろうかと思うくらいに驚いてる、とっさの事です。だから、度胸を据えればです、どんなに怖いものでも、じーっと見よると、こえらしいぐらい。ですからその、じーっと見れれるゆとりというものを頂かにゃいかんのです。難儀な問題なら難儀な問題が、そこに起きてきてもです。その難儀な問題の、難儀な実態というものをですね。見極めさせて頂くと、なるほど、これ神愛であると分かるのです。有難い。
また、私が、修行、いよいよ、たけなわの時でございましたが。福岡から、大木の、あの甘木行きの電車に乗って、大木から、椛目まで歩いて、こう来ましたね。その日は、お湿りがあっておりましたから、傘を持って来よった。ところが、大木で降りる頃には、お湿りが上がっておりましたのでしょう。その傘を持って来よった傘を、忘れてしもうた。はぁこら、傘を忘れたと思うて、まぁ道々、ずーっと神様が、その当時は、それこそ電車の中であろうが、道を歩いておろうが、神様がもう、私に語り続けてござる時分でした。もうお話しし続けてござる。そして、神様が、私が傘をさすれた事について、色々と御理解を下さるんです。此の方の道は、傘一本で開ける道と言われる。そういう御教えがありますね。傘一本で開ける道というのはです。なーにもなかっても、道は開けるという意味ではなくてです。安心のおかげを頂いたら、そこから、一切のおかげが頂けれるのであり、一切の道が開けるのであり、人が助かるのである。あの、傘一本で開ける道ということは、安心ということぞと言う御理解を、その時頂いた。だから、傘のお知らせを頂くと、安心と、ここでは申します。そらそうでしょう。お湿りがあっとる時には、傘をさしておるから、濡れんで済むけれども。さぁ、今にも降りそうな時に、傘も持たんでおったら、やはり不安であります。傘を、何時も持っておったら、いつ、どこで降りだしても安心という心がある。だから、傘は安心ということ。それから、段々、御理解を頂いた。今は、ちょうど、いわば、本当に、神様は間違いない、神様は有難いと、まぁそれこそ、のぼせるように、有難い有難いというておったおかげがです。反対になってきた。右と願や左、左と願や右といった様な時代であった。ところが、有難い事に、そういう事になってくれば、くるほど、私の修行というものは、いよいよ激しくなってきた。こういう時にですね。例えば、思い、意のままにならないというような時。はぁもう、神様を拝うだっちゃしようないという様な風に思う人もありますけれども。そうなればなるほど、いわゆる、修行に打ち込んで行くという生き方にならねばならんということを、今日、言ってますが。ちょうど、その時分の頃です、私の。その傘を忘れた事が、いわば、不安である。何時降りだすか分からんというような御理解を頂いた後にです。今は、ちょうど、雨やら風やらでですね。安心のおかげを、大体、頂いておった様であったけれども。いわば、その傘が、風で反対になってしもうて、用を足さない、傘としての用を足さなくなった。そこで、もう、濡れしぼたれになっておると言うのが、今の、私の姿ぞと言うような御理解であった、道々歩く道々。ですからもう、濡れたもんですから、もう濡れついでち言うような、いわば、度胸が出来ておる訳です。濡れる事に、一つも困ったと思ってない訳です。それで、きつい時には、今度はその傘をね。もう、こうなってしまっておるから、それをちぎってしもうて、その傘の柄を、ちぎりついででもの修行をさせて頂いておる時だという意味の事を頂いたんですけれどもね。私共が、心配する心で信心修行させて頂くと言うこと。不安である、心配であると言うてね。信心をしなかったら、それはおかげになりはしません。どうとかなろうといった様な事では出来ん。不安なら不安であるほど、心配なら心配であるほど、信心しなけりゃならん。しかも、そこに、普通では出来ない修行を、しっかりさせて貰わなきゃならん。
私は、今日は、そこのところを、皆さんに分かって頂きたいと思うですね。心配の時ほど、不安でたまらない時ほどです。本気で、信心修行をさせて貰うと。古池に、かわずが飛び込んだ。もうそれで、波立っておる。もう心は穏やかではない。さぁ、先はどうなんだろうかと不安である。これほど信心するのにと思う。そこで、信心をせずに、修行をしなかったら、もうそれでお終いであります、信心は。怖いものが飛び込んできた時ほどです。まぁ今日の御理解で言うと。そういう時ほど、落ち着いておれれるということ。いよいよ、信の深さというものが、その静寂さというものが、かえって、その静寂さを感じるように。信心の有難いものを、いよいよ、感じさせて頂けれるほどしの信心を頂くために。心配のある時、不安のある時ほどしに、信心修行をさせて貰わなければならない。信心修行をさせて貰うと、不思議に不安が薄らいで参ります。修行なしに、例えば、心配していないというなら、それは可笑しい。それはおかげにゃならん。不安であるなら不安であるほど、心配であるなら心配であるほど、うちこんだ信心修行させて貰う。そこからです、安心が生まれてくると言うなら、もうこれは、絶対のおかげである。それが、段々、繰り返し繰り返し、そういう信心修行させて頂いて行くうちに、絶対のものが頂けれ来るようになるのです。いわゆる、どの様な場合であっても、度胸が据わる。その問題を、それこそ、私がワクドを、縁から、じーっと、眺めておって、なるほど、そういう怖いもんじゃなか、かえって、こえらしかというふうに分かってくる様にです。その度胸が出来てくる。不安な事が起こったり、心配な事になってくると、信心を疎かにする人がある。そして、やけになる人がある。それでは、おかげは、例えば、よし受けましてもです、安心のおかげなどとは頂けません。信心の、これはまぁ、金光教だけではないでしょうけれどもです。いよいよ、究極とするところは、いわば、安心立命であります。その安心があれば、これは、取次者に対する人に対してでしょうね。例えば、修行して、教師の資格を取った。教師の資格を取ったから、人が助かるという事じゃない。その人の、安心の度合いが、人を助ける力になるのである。どのような場合であっても、驚かんですむだけの信心修行が出来て初めて、いわば、傘一本で開ける道という事が言えるのである。
この辺のところまでならばです。はぁ信心ちゃ有難いと思えれる人。例えば、この辺ち言うのは、皆さんが、今、感じておられる難儀でと言うても良いでしょう。はぁ信心ちゃ有難いなぁとこう思う。例えて言うならば、五十なら五十の難儀を、皆さんが持っておられるとするならば、はぁ信心頂いておるおかげで、ね。おかげで信心の修行が出来ますと修行させて貰うが。これがもし、百の難儀になったら、果たして、どうであろうか。おかげで、より修行が出来ますと言うふうに受けられるだろうか。そこのところを、一つ、確かめてみてください。心配する心で信心をせよということを、今日は、心配する心で、信心修行をせよと。不思議、修行をさせて頂くと、そこから、安心が生まれてくる。その安らぐ心の平生心というか。それが、おかげに繋がるのです。それで、完ぺきという事ではありませんけれども。そういう信心が、繰り返し繰り返し、いわゆる、かっぱえびせんである、先日頂きました。カッパの様な、例えば、千人力というような力を受ける、徳を受けるためには。エビということは、修行ということでしょう。そういう修行が、千回も、繰り返し、同じ、例えば修行でも、同じ話でも、繰り返し繰り返し頂いておる。繰り返し繰り返し、そういう修行をさせて頂くうちにです。それこそ、河童が、水の中で、千人力と言われるほどしの力がね、頂かれる訳です。だからもう、繰り返し繰り返し、ここんところを稽古して行く。そこが、信心の稽古である。そういう信心を、段々、身につけて行くから、いよいよ、心が豊かになる。落ち着いておれれるという、その豊かな、そこから生まれてくる豊かな心に住まわせて頂いて、初めて、豊かなものの世界に住む事が出来るのであります。だから、普通で言う、あの人は、腹が大きいとか、豊かな心だとか、気が長いとかというのとは違う訳です。どんなに、神経の小さい人でも、信心させて頂いて、生まれてくるところのゆとり、安心。
私は、昨日、今朝から、起きてから、家内に話したことでしたけれども。不思議なことがるがねと言うて話した事です、起きてから直ぐ。というのは、私は、ご承知のように、沢山水を頂くんです。ところが、昨日、少し頂きすぎたかなんかでしょう。それまでは、水をずいぶん頂いておりましたが、今度は、胸が焼けてきたです。私はこの、胸が焼けたら、昆布を、このくらいなつを二切ればっかり食べたらもう、直ぐ良くなるです。秋永先生が、こらもう、ちょいと、こげん利くもんはなかばいち言うたら、そら親先生、あーただけですよち。私だん、かえって昆布食ぶるなら悪うなるち言う。ほら、そげなこっじゃろうかち思うた時にですね。ははぁ、こら、私だけに、本当に下さっとるのかも知れんと思うた。こら、胸がやけた時にです、焼ける時にはもう、このくらいのつば、二切れども食べたらもう、途端に良くなるです、私は。ははぁ、あれは、喜ぶですからね。喜びが、例えば、一切を解決して行く訳なんですけれども。それから、続いてからです。今朝から起きてから、何時も、枕元に、水差しを持って来て頂いとるとが、何時も空になるんですけれどもね。今日は、一つも飲んでいないという事実があった訳です。だから、昨日から、その喜びが続いて、あの、昆布を食べるとね、昆布を食べると、胃の焼けるとが良くなるだけではなくてです。水も飲まんでよかごつなるかん知れんねと言うてから、今朝から話したことでした。これは、だから、まぁ、私に対する、神様の、事実を持っての御理解だと思いました。だから、食べるとか食べないでなくて、いわゆる、喜びというものは、このように素晴らしいことだと言うことです。だから、喜びということは、豊かな心とこう言うけれどもです。その豊かな心というのは、もう何時も豊かな心の人がありますけれども、遠慮する人があるです。ですから、そげなじゃないです。信心で言う豊かな心というのは、中に、喜びが一杯あってのゆとりでなからにゃならない、安心でなからにゃならないという事になります。豊かな心と言うても、信心の喜びが、その豊かな心の中に一杯ある。そういう豊かな心の世界に住まわせて頂いて、初めて、豊かな者の世界にも、またつながる世界に住む事が出来るという事であります。どうぞ。